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ふたりの男が語る
“ミラノ人のスピリット”

かたや、北イタリア最大の自動車ディーラー「MOCAUTO」を率いる大実業家にして、
アルファ ロメオをこよなく愛し続けてきた生粋のミラネーゼ。
かたや、ファッションの世界の第一線で活躍しながら、“ビジター”としての視点でイタリアの文化を見つめ、
とりわけミラノという都市に魅了されてきた日本人ファッションディレクター。
ふたりの男が語る「ミラノへの想い」が、ここに交錯する。

※記事の掲載内容は2018年3月現在のものです。あらかじめご了承ください。

  • ピエロ・モカレッリ
  • 干場 義雅

北イタリア最大の
自動車ディーラーの経営者として、
アルファ ロメオの魅力を広め続ける男

ピエロ・モカレッリ Piero Mocarelli (1938-)

ピエロ・モカレッリPiero Mocarelli (1938-)

1938年11月8日生まれ。
大学卒業後、63年にMOCAUTO設立。新車、中古車、新古車、商業車、リースカーも合わせて16ブランドを手掛ける北イタリア最大のグループ企業に育て上げた。ミラノの中心部に備える展示場の敷地面積は9万平方メートル。現在も第一線で自社を率いるが、夏の休暇はサルデニア島の別荘でたっぷり一か月。自動車アパッショナート、同時に眼光の鋭い企業家、孫娘の話をする時だけ、相好を崩す。

※記事の掲載内容は2018年3月現在のものです。あらかじめご了承ください。

イタリアは多くの小都市で成り立つ国。ヨーロッパ大陸のなかで近隣諸国による複雑な分割占領と譲渡を繰り返した歴史が、都市内の団結を強めた。ひとつの国のなかに地方都市が存在するというより、地方都市が集まって国を作っているのがイタリア。この点がパリを軸に据える隣国、フランスと大きく異なる。

「ミラネーゼとしての夢」を掴んだ男

ローマに生まれローマで育ちローマで働くイタリア人はロマーノで、フィレンツェはフィオレンティーノ、ナポリはナポリターノ、トリノはトリネーゼ。地方ごとに明快な呼び名があるが、明快なのは呼び名ばかりではない。食べるものもそれぞれなら気質も異なる。何より言葉に違いがある。自分の生まれた土地の方言を使い続けることは彼らにとって普通のこと、いや自分自身のアイデンティティだ。ミラノから50kmの場所にあるベルガモの方言はベルガマスコと呼ばれ、ミラノ弁とは全く異なるのだ。ミラノでは人名に英語のthe にあたる定冠詞をつける。太郎さんをイル・タロー、桜さんをラ・サクラと呼ぶ人に会ったら、会った場所がローマであってもミラネーゼと思ってまず間違いない。ちなみに母音で始まる一郎さんはリチローとなり、愛子さんはライコに変わる。
地方都市同士には微妙なライバル意識はあるものの、それぞれに役割や得意種目があって、互いの領域を犯さないところもイタリアならでは。みんなトウキョウを目指さない。ローマは政治、フィレンツェは文化、トリノは工業。ミラノの得意種目は経済だが、同時にこの街はファッションとデザインの都市、何よりアルファ ロメオがミラノを象徴する。イタリアの未来をイノベーティブに作り出す都市に相応しい自動車として彼らの誇りとなっている。
生粋のミラノ人、ミラネーゼは他の都市の住民からは“自分たちばかりがイタリアを牽引するような顔をして”こんなやっかみを受けるが、それはミラノあってこそイタリアが成り立つことを知っての上での憧憬でもある。ミラノは古くから経済的豊かさを備えた土地だったために、工員を求めて他の地方都市からの移住民を必要としたトリノと異なり、“生粋”が多い。生粋はイタリアを自分たちが支える自覚に強く、ローマよりパリやロンドンをライバルとする。
こんなミラネーゼはサッカーならミランかインテルに分かれるが、自動車はアルファ ロメオ。我らのアルファ ロメオを愛し、乗る。だからこそ、このクルマを広める人はミラネーゼとしての夢を叶えた人と言えるだろう。
ピエロ・モカレッリはそんな夢を自らの手で掴んだ。彼は16ブランドを扱う北イタリア最大の自動車 ディーラーの経営者。現在はグループ企業に成長したモカウトは彼が1963年に興した。

ピエロ・モカレッリ Piero Mocarelli (1938-)
自社のショールーム前でお気に入りのジュリアに乗り込むモカレッリ。ボディカラーはイタリアでもっとも人気のガンメタ。手前に見える1台はジュリア、ステルヴィオと共にアルファ ロメオのルネッサンスを作り出した4C。設立者である彼の苗字(Mocarelli)の最初部分と自動車(Auto)を合わせたモカウトは社名もロゴもミラノを州都とするロンバルディア州では自動車ディーラーの代名詞として浸透している。
Photo:Roberto Carrer

アルファ ロメオの魅力に取り憑かれる

モカレッリのアルファ ロメオとの出会いは18歳のとき。大学時代の親友が父親から与えられた63年型ジュリエッタ1300ベルリーナを、まだ免許を持たぬ親友にかわって運転した。「よくなかったわけがない。このクルマでアルファ ロメオの魅力に取り憑かれた。ボディカラーはブルー。ジュリエッタのスタイリングにマッチする素敵なブルーだった」と彼は笑う。続けてこんな興味深いことを言った。
「私自身は裕福な家庭の子供だったわけでは決してない。でもイタリアっていうのはクルマ好きが自然と集まって、そのなかには必ずひとりくらい、親の自動車を自由に使えたり、学生の分際では乗れぬクルマを親から与えられた子供がいるものなんです。そういう奴は寛大で親切、喜びを仲間と分け合おうとする。私もその典型だったと思います。最初にステアリングを握ったのがジュリエッタとは幸福な限りですが、ミラノのクルマ好きの裕福な男はあの頃、みんなアルファ ロメオを1台は持っていたんです。そういうものだった。ミラネーゼであることのよさですね」
加えて言えば、ミラノに限らずイタリアの自動車好きはレースが好きだ。持ったら”走る“が原則。モカレッリもまた仲間と共にレースに参戦、クルマにのめり込んで行く。その情熱が25歳で自動車企業家になることを後押しした。
「最初はアウトビアンキの販売を初めて、徐々に扱う車種を増やした。出来そうなことは何でもしましたが、いつかアルファ ロメオを売りたいと時期を狙っていました」
狙った時期が訪れるのは97年のこと。156がデビューしたことで「ラインナップが充実する」と読んだ。彼の読みは当たり、その後、166、147がデビュー、販売は順調に増え、アルファ ロメオはモカウトの看板となったのだった。

ピエロ・モカレッリ Piero Mocarelli (1938-)
Photo:Roberto Carrer

「スポーティネス魂こそ、
アルファ ロメオの真髄」

「今の時代、自動車へのアプローチは合理的なものになっています。購入の決め手となるのはイタリアでも環境への配慮や燃費、プライスです。でもね、今回のジュリアのデビューによって、私はこういう流れが変わる気がする。一石を投じたと言えると思います。ジュリアはイタリア人が愛するスポーティネス魂に再び火を灯した。スポーティネス魂こそ、アルファ ロメオの真髄。ジュリアはアルファ ロメオなんです」
ジュリアはアルファ ロメオである、という一言を彼はイタリア語で「モルト・アルファ」と語った。very Alfa だと言い、それからこう付け加えた。「ジュリアはモルト・ベッラ」、アルファ ロメオを賞賛するそれとして、とても美しいという言葉を忘れないところが、まごうことなきミラネーゼである。

ピエロ・モカレッリ Piero Mocarelli (1938-)
Photo:Roberto Carrer

モカウトを率いるピエロ・モカレッリは79歳。アルファ ロメオ ジュリアの横に立つ彼はブルーの瞳を持ったイタリアン・ガイ。山に行くときはステルヴィオで、走りたくなる日にはジュリア クアドリフォリオを足とする。「クルマは売るほどあります。目的に合わせてアルファ ロメオをセレクト出来る日々はとても幸福です」、こう言って片目をつむった。

ファッションのエキスパートを
魅了した、
「ナトゥラーレ」という
ミラノ独自のセンス

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

干場 義雅Yoshimasa Hoshiba (1973-)

『LEON』や『オーシャンズ』など数々の人気男性誌の創刊編集者として“ちょい悪オヤジ”ブームを作り、ファッションディレクターとして独立。
2012年、株式会社スタイルクリニックを設立。TOKYO FMでメインパーソナリティとしての顔も。
船旅を愛する男女誌『Sette Mari(セッテ・マーリ)』の編集長、また「女性の本音が日本の男をもっと格好良くする!」をテーマにした、講談社デジタルメディア『FORZA STYLE』の編集長としても活躍中。新聞・テレビ・雑誌・ラジオなど、その活動はメディアの枠を越えて多岐に及ぶ。

※記事の掲載内容は2018年3月現在のものです。あらかじめご了承ください。

美しいこと、楽しいことをこよなく愛するイタリア人。そのこだわりを支える基本原理の一つが、エレガンテとスポルティーヴァ。つまり、美しく、優雅であり、かつ活動的、刺激的で健康的であることをことのほか大切にする。
建築物、デザイン、グルメ、自動車やバイク、スポーツそしてファッションなど。イタリア人が愛し世界に愛されるこれらは、同時にイタリアを支える基幹産業でもある。そしてミラノこそイタリアのファッション産業を支える中心地でもある。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

エレガンテの中に宿す、
軽やかなスポーティさ

「生きることに対して真摯、いかに人生を楽しむかということに、イタリア人はとてもひたむきなんだと思います。だから装いにもそのこだわりが見えてくるんです」

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

そう語るのは干場義雅(ほしば よしまさ)氏。男性誌「LEON」や「OCEANS」の創刊に関わり、長くイタリアのファッションやライフスタイルを紹介してきた一人であり、現在も「ファッションで人生をフルに楽しもう!」というコンセプトのもと、デジタルファーストメディア「FORZA STYLE」(講談社:www.forzastyle.com)の編集長をつとめる。そのタイトルがイタリア語であることからも、氏のイタリアに対するこだわりが見える。
実家は東京で三代続いたサルトリア、つまり洋服の仕立て屋。子供の頃から「キチっとした格好」に囲まれて育った。やがて映画「ゴッドファーザー」との出会いがきっかけで「イタリアが作る男のカッコよさ」を追い求めるようになり、ついには実家を継がず、ファッションメディアの世界に身を置き、イタリア、とりわけミラノに足繁く通うようになっていく。
「日本でおなじみのミラノという街は、欧州らしいクラシカルな街並みなんですが、他のイタリアの都市との大きな違いは、イタリア経済を支えるといわれるビジネススタイルと、ファッションやインテリア業界の中心らしいクリエイティブなスタイルとが共存しているところです。キリリとしたスーツスタイルはもちろんのこと、例えば、モンテナポレオーネ通り(ミラノの有名ファッションストリート)では、こちらも一見イタリアらしい仕立ての良いジャケットとパンツで決めていても、あえてインナーをラフにして足元はスニーカーなんていうコーディネイトもよく見られます」
ミラノで生きる人々は、イタリアらしいエレガンテの中に、軽やかなスポーティさのある都会的な感覚をバランス良くブレンドしているという。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

ミラノとファッション

「イタリアのファッションを語るときに欠かせない要素がこの “クラシコ的要素”です。スーツの発祥は英国なんですが、それを堅すぎず、柔らかすぎずの絶妙なバランスでこしらえ、着こなす洗練と自由が同居するコーディネイトにしたのが、イタリア。イタリアらしい遊び心溢れるフォーマルなモノづくりと着こなしとでも言うべきでしょうか。もちろんミラノでもそのスタイルが主流なんですが、いっぽうでアルマーニやヴェルサーチ、ドルチェ&ガッバーナ、ロベルト・カヴァリなどのモード服を受け入れる土壌があるのもミラノらしさのひとつですね」
現代ファッションにおいて、パリ、ニューヨーク、ロンドンらと並ぶBig4の一角として有名なミラノ。商業、経済においてイタリア最大、欧州でも屈指の大都市の一つに数えられているミラノという街が、クラシコ的な世界とモード的世界を両立できるのには理由がある。
ミラノは「イタリア唯一の都会」といわれているが、そこには第二次世界大戦の戦火が大きな影響を及ぼしている。
多くの都市が空爆を受けなかったイタリアにおいて、ミラノだけは実に市内の40%もの建物を爆撃で失っている。今でこそ往時の面持ちを取り戻しているが、その優雅な外観とは裏腹に、ミラネーゼたちは戦後の長き期間を復興と、それまでの産業基盤とは大きく異なるビジネスへの転換を強要されてきた。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)
(左)イタリアらしい城塞都市の面持ちのミラノの中世の地図。爆撃後の復元で、基本構造を今に留める。
(右)ドゥオモに並ぶミラノのランドマーク、スカラ座の演目表。オペラなどの芸術文化も近代ミラノを語る上で外すことはできない。

イタリアでは、ミラノを称して「イタリアを未来に向けて牽引する立場」という人がいるが、実際、「ミラノ・ファッションウィーク」をはじめ、家具装飾品、デザインの世界的なイベント「Salone del Mobile di Milano(通称・ミラノサローネ)」や、食や文化を発信する2016年に行われたミラノ万博などのように、地元の宣伝ではなく、ネーションワイドなイタリアの魅力や、「イタリアの今」を世界に発信することに実に精力的だ。
イタリアらしく伝統的なものを頑なに守りながらも、新しいものに対する対応や変化をも厭わない。こうした気質がミラネーゼのファッションにも現れている。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

ナトゥラーレ(自然体)こそが重要

多くのイタリアファッション界の大物や、粋人たちとの交流も深い干場氏。彼とイタリア、日本におけるファッションのあり方を結ぶエピソードがある。
「あるとき、ディエゴ・デッラ・ヴァッレ氏(TOD’SやHOGANといった靴、カバン、アパレルブランドのオーナー)のヨットで地中海をクルーズする機会があって、その時、彼とのファッション談義中、彼がことさらNaturale(ナトゥラーレ)こそが意識すべき重要なポイントだと強調されていたんです」
ナトゥラーレとは自然(体)の意味。この場合、己とその場の空気との調和や馴染みを意識した振る舞いや装いこそが大切というデッラ・ヴァッレ氏の持論は干場氏に大きな影響を与えているという。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

「現代の男の主戦場ともいえるビジネスの世界は、多くの場合が都会だといえます。そんなフィールドにあったエレガンテとスポルティーヴァの体現こそ、都会におけるナトゥラーレ(自然体)なんだと思います。だからこそミラノの感覚とミラネーゼの装いには学ぶべきポイントが多いと思うんです」
そんな干場氏とナトゥラーレとの出会いは、もう一つのミラネーゼ。アルファ ロメオというクルマによって、はるか昔にも訪れていたという。
「出版社で働きはじめた頃、ちょっと変わった、でも最高の編集者である先輩がいたんです。彼の愛車はアルファ ロメオ。しかもスパイダーでした。ボロボロとまではいいませんが、ピカピカとは程遠い薄汚れたシルバーのボディ。そんなクルマであらゆる取材をこなしていました」

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)

当時のファッション誌業界で、アルファ スパイダーはなかなかの人気者。小物やモデル撮影などで誌面を飾ることも多く、干場氏の周りの関係者にもオーナーは多かったという。その多くのボディカラーは赤。もちろんどれもピカピカに手入れされていた。

「その先輩。決してハデなタイプの人ではなかったんですが、とにかくすばらしい原稿を書かれるんです。人を魅了するというか引き込む原稿というか…。だけど、締切の時なのにちょっと酒臭かったり、いつもクルマがそんな感じだったりと、なんとも独自のスタイルというか自由な感じの方で…。正直最初はそのクルマを含めた全てに戸惑っていたんですが、でもしばらくすると、彼という人間や振る舞い、仕事やライフスタイル全体と、アルファ スパイダーというイタリアの相棒とのマッチングの良さがだんだん見えてきたんです。今だからわかるんですが、その先輩は、すでにちゃんとナトゥラーレを理解されていたんです。とにかくすべてがちょうどいい感じだったんです」

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)
撮影場所:イタリアンレストラン「La Bisboccia(ラ・ビスポッチャ)」

あれから20年以上。公私関わらずイタリアを訪れた回数はすでに100回をゆうに越える。イタリアに骨を埋めたいとまで語る干場氏のイタリアへの思いは、こうした「イタリアが作る男のカッコよさ」とともに今もある。

ミラノの誇り

ミラノに生を受けたアルファ ロメオのエンブレムは、同市の市章である聖ゲオルギウス十字章と、Biscione(ビシオーネ)と呼ばれる大蛇をモチーフにし、中世に栄華を誇ったミラノ公国ヴィスコンティ家の紋章を組み合わせたもの。
コスト度外視の革新的技術投入による卓越した高性能と、優雅かつ躍動感あふれる美しいスタイル。さらにはレースでの連戦連勝といった栄光など、多くの理想と魅力が備わったその姿には、かの自動車王、ヘンリー・フォードにさえ「私はアルファ ロメオが通りすぎるたび帽子を取る」とまでいわしめた。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)
1938年 8C 2900 B Lungo。1936年のミッレミリアでは1-2-3フィニッシュを遂げた俊足。39年製のスパイダーモデルがおよそ2000万ユーロという恐ろしい価格で取引されていることからも、いかにアルファ ロメオがいまなお強力な引力をまとったクルマかがわかる。

ファッションがそうであるように、アルファ ロメオというクルマには、何かを誇張するような存在としての自動車ではなく、独特の柔らかさとしなやかさが同居している。
復活を遂げた戦後のアルファ ロメオを代表する名セダン「ジュリア」にも、独特の個性を強調しすぎない妙が存在している。
これぞ「ミラノ生まれ」。そうとでも言いたげなそのバランス感覚こそ、アルファ ロメオの現代の都会を生きるための「ナトゥラーレ」なのかもしれない。

干場 義雅 Yoshimasa Hoshiba (1973-)
1910年の創業当時から、エンブレムの意匠にはMILANOの文字が。ミラノ発のブランドであることを強く訴えている。
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