designer

ふたりの男が体現した
「創造への情熱」

自らの美学と哲学を頼りに、人々の記憶に残る「かたち」を生み出す。
それは、優れた創造者だけが享受できる「歓びと恍惚」なのかもしれない。
かたや、機能性と合理性を備えた美しいデザインによって、今もなお多くの名車を作り続ける、
ミラノの名門カロッツェリアの創設者。
かたや、ファッションの発信地、イタリアに単身渡って靴作りを極め、
現在では世界の一流顧客たちをも魅了する日本人職人。
ふたりの男が体現した「創造への情熱」が、時代を超えて、ここに交錯する。

※記事の掲載内容は2017年12月現在のものです。あらかじめご了承ください。

  • ウーゴ・ザガート
  • 深谷 秀隆

アルファ ロメオに“強靭な美”を与え、
自動車史に残る多くの名車を生み出す

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)

ウーゴ・ザガートUgo Zagato (1890-1968)

自動車デザイナー/カロッツェリア・ザガート創設者。
航空機製造技術で培った空力デザインのノウハウとアルミニウムやスチールを用いた軽量ボディを自動車に応用。美しく、同時に戦闘力の高い造形を持った、自動車史に残る多くの高性能スポーツカーを生み出した。
機能性と合理性を強靭な美で表現する彼のデザインは高く評価され、現在に至るまで多くの自動車に影響を与えている。

イタリアと言えば赤。真っ赤に熟したトマトは家族で囲むイタリア人の食卓に欠かせないが、何より赤は彼らが愛する情熱と熱い血を感じさせる色。この赤こそアルファ ロメオを象徴するカラーだ。レーシング・ユースのみならず、スポーティネスと高性能を好むエンスージアスティックなドライバーに愛され、彼らがステアリングを握ったことでアルファ ロメオはこの国の街の素敵な風景の一部を作り出した。現在でもミッレミリアで沿道から声援を送る人々をもっとも熱狂させるのは、間違いなくアルファ ロメオである。

歴史に残る「最強のコンビネーション」

いつの時代も先進的で高度なメカニズムを携えるがためにアルファ ロメオはその走りに注目が集まるが、母国イタリアで愛されるもうひとつの理由は<ボディデザイン>。格好のいい馬こそサラブレットであるように、彼らにとって速いものはスタイリッシュでなければならず、逆もまた然り。その点でアルファ ロメオはまさにサラブレッド。このクルマが愛されるのはイタリアン・デザインを具現化しているからに他ならない。
この国ではかつて、自動車メーカーはエンジンとシャシーを作り、ボディはカロッツェリアが製作した。カロッツェリアとはデザイン工房、英語で言うところのコーチビルダー。やがてメーカーは社内にイン・スタジオと呼ばれるデザイン部門を備えて自動車製作の全般を手掛けるようになる。それでもカロッツェリアとのコンビネーションが長く続いたのは、彼らが彼らにしか出来ない斬新なデザインを生み出したから。アルファ ロメオもしばしばカロッツェリアにボディデザインを依頼、最強のコンビネーションが多くの歴史に残るクルマを生み出した。なかでもミラノのカロッツェリア、ザガートと組んだそれは一際、個性の強さに惹きつけられる。

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
ザガート・ファクトリーにて6C 1750グラン・スポルトに乗るウーゴ。後方にジュリアTZが見えることから60年代に撮影されたものと思われる。彼の孫にあたるアンドレアが引き継いだ70年代、ファクトリーはミラノから20kmほど行ったローに移され、2010年には90年に亘るアルファ ロメオとのコラボを記念してTZ3コルサがここから生まれた。(Photo: Archivio Quattroruote)

カロッツェリア・ザガートが
誕生するまで

ザガートは1919年、ミラノでウーゴ・ザガート(1890年6月25日-1968年10月31日)が創設した。北イタリアのヴェネト地方で6人兄弟の末っ子として生まれたウーゴは、この時代の貧しい家庭の常で、衣食住が無料の神学校入りを提案されたが、それを断る。当時の神父は自転車に乗ることを禁止されていたために、幼い頃から機械と乗り物が大好きだった彼は職を求めてドイツに行く道を選んだのだ。15歳でケルンに渡り、彼の地で機械工の仕事を学ぶ。その後、母国に戻って徴兵を終えると、馬車工房から自動車製作に移行したばかりのミラノのカロッツェリアに入った。昼は自動車製作を学び、仕事が終わるとインダストリアルデザインの習得を目的に夜学に通い、次第に実践力と理論の双方で力をつけて行った。 イタリアが第一次世界大戦に突入したことでウーゴは飛行機の製作工場に派遣されるが、ここで得た知識が彼を自身のカロッツェリア創設へと導くことになる。ウーゴが率いたチームに最初、課せられたノルマは月産3機。それに対して彼が優れたリーダーシップを発揮し作業を組織化した結果、最終的には日産2機の完成まで腕を上げたという。給料は出来高制度、これにより彼は起業資金を蓄えた。エアロダイナミクス・デザインと金属加工、軽量ボディ製作のノウハウを武器に自動車製作を学んだ地、ミラノに1919年、カロッツェリア・ザガートを興したのである。

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
創始者ウーゴ(右)と長男エリオ(左)。60年代のオフィスで撮影された1枚。エリオは自らのスクーデリアを持つレーシングドライバーとしても知られ、タルガ・フローリオのほか、GTシリーズでの5回の優勝経験を持つ。弟とのジャンニと共に父を支えたが、現在はエリオの長男アンドレアがザガートを率いる。

エアロダイナミクスの分野で
先駆的役割を果たす

当時、馬車の面影を引きずる自動車デザインはデコラティブ、ボディは重いものが一般的だった。しかしウーゴは航空機技術から応用した軽量と空力を得意とし、 マテリアルのセレクトにも豊富な知識を備えていた。アルファ ロメオの創設者であるニコラ・ロメオが願ったレースでの活躍をザガートが後押しすることは間違いなかった。最初にアルファ ロメオがザガートにボディデザインを依頼したのはカロッツェリア設立から僅か2年後の1921年。アルファ ロメオのザガートへの期待が感じられる。 このカロッツェリアの名を最初に世に知らしめたのは1929年の6C 1750グラン・スポルト、そして3年後にスタートした8C 2300シリーズ、いずれもアルファ ロメオの天才エンジニア、 ヴィットリオ・ヤーノの設計したツインカムエンジンを搭載、ここにザガートが生み出した軽量ボディが架装されることでポテンシャルが飛躍的に高まった。

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
今もイタリア最高のヴィンテージ・サラブレッドと称される6C 1750グラン・スポルト。ザガート製ボディの特徴は美しさに加えレースに滅法強いこと。実際、デビューした29年にミッレミリア1位/3位、翌30年は1-2-3-4までをこのマシンが独占した。写真のドライバーは1930年のミッレミリアでバッティスタ・グイドッティと組み優勝を飾ったタツィオ・ヌヴォラーリ。(Photo: Archivio Quattroruote)

「コーダ・トロンカ」と呼ばれた
スタイリング

ウーゴ率いるザガートはいつの時代にも一貫してエアロダイナミクスを追求してこの分野で先駆的な役割を果たしたが、50年代後半から60年代に掛けて登場したグランツーリズモにもその力が十分に発揮されている。アルファ ロメオとザガートの代表作とも言えるジュリエッタSVZ、その後のジュリエッタSZ/SZ2、ジュリアTZ/TZ2など傑作と言われるGTの誕生である。
ジュリエッタSVZはミッレミリア参戦中にダメージを負った1台のSVが、ドライバー、カルロ・ レート・ディ・プリオーロの手によってザガートに運び込まれたことで誕生したクルマ。ザガートは大破したボディを軽量なアルミを使って作り直し、加えて他部分の軽量化を実施、こうして生まれたSVZはレースでの活躍によって注目を浴びるようになった。

続くSZの誕生過程もSVZに負けず劣らず興味深い。アルファ ロメオはスパイダー用のフロアパンと1.3Lエンジンを対照的ともいえる2つのカロッツェリアに渡す。ひとつはトリノのベルトーネへ、もうひとつはミラノのザガートへ。結果、ベルトーネはエレガンスとラグジュアリーをキーワードにジュリエッタSSを、ザガートは得意の軽量ボディを使った空力に富むSZを生み出した。この違いをフランスの占領下にあったトリノとオーストリアの占領下にあったミラノ、ふたつの都市の歴史的気風の差とみる自動車専門家もいるようだが、アルファ ロメオのセレクトが的を射たものだったことは疑う余地もない。
SZはSSより80kg近く軽量の785kg、最高速200km/hに達するレース使用を目的としたモデルだったが、後期に製作されたSZ2ではリアがすっぱり切り落とされたスタイリングとなっている。これが「コーダ・トロンカ」と呼ばれるもの。コーダはイタリア語で尻尾、トロンカは”切り落とされた”を意味する形容詞だが、こうすることで乱気流が減少するため空力効率が改善され、最高速が向上した。コーダ・トロンカはこのクルマの特徴でありニックネームとして世界中に知られるようになったのだった。

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
SZ2“コーダ・トロンカ”。1960年デビューのSZは一般的な短く丸いお尻(コーダ・トンダ)を持っていたが、最新の空力理論を用いた後期型は、長く切り落としたテール(コーダ・トロンカ)を採用した。初期型SZの空力に不満を抱いていたのは誰あろうウーゴ・ザガートの長男エリオ。急造の長いテールを被せ、デザイナーのエルコーレ・スパーダとふたりモディファイを加えながら何度もアウトストラーダを往復し、タイムを計った逸話はレースに強いザガートらしいものとして知られる。

ミラノはイタリアを未来に向かって
牽引する

62年にはジュリアTZがデビュー。Tはチュボラーレ(Zはザガート)を意味するが、実際、フレームはモノコックではなく、修復が容易な鋼管スペースフレーム・シャシーが採用され軽量化にも貢献する一方、リア・スタイリングはさらに”トロンカ”となっている。レーシング・ユースの熟成が感じられるが、この楽しみのゾーンを一般ドライバーに広げるモデルが60年代後半に登場したジュニアZ。ウーゴの後継者として息子のジャンニがザガートを受け継いで生産体制の近代化を図った結果、ジュニアZは1300Zと1600Z合わせて1510台生産され、アルファ ロメオ/ザガート・ファンを喜ばせた。
アルファ ロメオは常に先端技術を携え、前進を続けて来たミラノの自動車メーカー。このメーカーのコンセプトをデザインで表現したのが、これまたミラノのザガート。 ローマがこの国の歴史的土台とすれば、ミラノはイタリアを未来に向かって牽引する都市。共にこの地で生まれたアルファ ロメオとザガートは絶妙なコンビネーションで時代を先取りする自動車を生み出した。

ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
ジュリアTZ。ジュリエッタがジュリアに生まれかわってもアルファとザガートの蜜月は続いた。SZのように高い戦闘力を持つスポーツカーという使命を課されて誕生したのがジュリアTZである。ボディ後端が外側にめくれ上がっていることでボディに沿って流れてきた空気をうまく剥離、効率と安定性が高まった。
ウーゴ・ザガート Ugo Zagato (1890-1968)
ジュニアZ。ジュリエッタSZ/ジュリアTZがスパルタンなコンペティション向け小型スポーツカーだったのに対し、69年のトリノショーでデビューし一躍人気を博した2シーターのジュニアZはロードゴーイング。ザガートのアイコンともいうべきコーダ・トロンカは不変。しかし来たるべき70年代に向け新しいデザインの息吹を感じさせ、”民主化”を図ったザガート製アルファといえるだろう。

1960年、イタリアのみならず世界の自動車界でもっとも権威ある賞、偉大な功績を残したデザイナーに贈られるイル・プレミオ・コンパッソ・ドーロを受賞したウーゴは8年後、ザガート社近く、テラッツァーノの自宅で静かな死を迎える。睡眠中に亡くなったという。しかし現在も、ウーゴの手によってボディ全体のバランスを敢えて不均衡にすることで強靭な美を与えられたアルファ ロメオは多くのファンを魅了する。 エアロダイナミクスと軽量設計、戦闘力の高さと美を両立するウーゴの哲学がアルファ ロメオ史の素晴らしい1ページを作り出した。

芸術の都・フィレンツェで
シューズデザインを
アートに昇華させた日本の靴職人

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)

深谷 秀隆Hidetaka Fukaya (1974-)

愛知県生まれ。
名古屋モード学園在学中よりシューズデザイナーの松田繁太郎氏に師事。同校を主席で卒業後、『Kensho Abe』のデザイナーを務める。
数々のファッションアワードを受賞するも、イタリアで本場の靴づくりを学ぶ意志を貫き1998年に渡伊。シエナのアレッサンドロ・ステッラ氏のもとで修行を重ねる。99年フィレンツェに移り、自身のブランド『il micio(イル・ミーチョ)』をローンチ。その才能が認められ、2003年からイタリア随一の老舗セレクトショップ『Tie Your Tie』でプロダクトデザインも手がける。05年には、イル・ミーチョのフラッグシップショップをフィレンツェ市内にオープン、顧客リストには各国のセレブリティの名が並ぶことでも知られる。

※記事の掲載内容は2017年12月現在のものです。あらかじめご了承ください。

かつてルネッサンス文化が開花した都市であり、また現代のイタリアが世界に誇るメンズファッションの中心地としても知られる街、フィレンツェ。紳士モード見本市『ピッティ・イマージネ・ウオモ』が毎年開催され、世界中のバイヤーたちがこの地に集結するが、そんな目利きのファッショニスタたちからも一目置かれる靴職人として知られるのが深谷秀隆氏だ。母国・日本のファッション業界で大いなる将来を嘱望されながらも、敢えて“ビスポーク”の靴職人になることを目指してイタリアに渡った。アルファ ロメオの美学にも通ずる“機能美のアート”と評したくなる唯一無二のデザインで、レザーシューズの新境地へと挑み続ける靴職人の真摯なものづくりに迫る。

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
深谷氏の工房『イル・ミーチョ』で。ショーケースにはさまざまなデザインの靴が並ぶ。

顧客とマテリアルに恵まれた国

フィレンツェのチェントロ・ストリコ(歴史的旧市街)。サン・パンクラーツィオ広場近くの落ち着いた街区に深谷氏の靴店『イル・ミーチョ』はある。クライアントのリストには世界屈指の企業家や王族が連なり、世界でも活躍した日本の有名サッカー選手も深谷氏の靴を愛用している。顧客と一対一で向き合い、真摯な対話を通じて相手の趣向を探りながら世界で唯一の服飾づくりをすることを意味する「ビスポーク」。その「ビスポーク」による靴作りをめざした深谷氏の原点はどこにあるのだろうか?

「母は子供服の縫製の仕事をしていましたので、僕も少年時代からミシンで遊んでいました。街に出れば、下駄職人さんがいました。畳の上に座って独特な作業台で仕事をしているのをたびたび見に行ったものです。モノづくりをする人たちの中で育ったんです。
やがて学校を主席卒業したおかげで、ファッションデザイナーとして東京のブランドにスカウトされました。僕が初めてアルファ ロメオに触れたのは、ちょうどその頃です。師匠にあたる人がスパイダーに乗っていて、何度かステアリングを握らせてもらいました。師匠はその車を「譲る」と言ってくれたのですが、20代前半だった僕に、その良さや価値はよく分かりませんでした。結局イタリアに行く計画もあり、お断りしてしまいましたが、今思えば、なんてもったいないことをしてしまったのかと・・・。
デザイナーとしての仕事に話を戻せば、1990年終わり頃のDCブランドは、斬新な面白さが最優先されていました。しかしそのような流行の中だとアイディアは誰にでも生み出せます。僕はその先にある『誰でもできないことをやらないと面白くない』と思い始めたのです」

深谷氏はファッション業界の仕組みを知るべく1年働いたあと、学生時代から学んでいた靴づくりを極めるため、本場イタリアに単身渡る。さまざまな工房を回って弟子入りを乞う日々。気がつけば、門前払いされた工房の数は30軒に達していた。それでも不屈の精神を抱き続けてたどり着いたのは、トスカーナの古都シエナの靴職人アレッサンドロ・ステッラ氏の工房だった。

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
靴づくりの道具は骨董市でつぶさに探しているという。なかには90年近く前に作られたものも。

「アレッサンドロが履いていた靴は、今まで一度も見たことのない革を使っていました。『工房に潜り込んで、そのレザーの正体を暴こう』と決意したんです。そして『明日この街に引っ越してくるから、どうぞよろしく』と言って、なかば強引な手法で弟子入りしました。まず仕事を任されたのは、地元の伝統装束に合わせるための靴でした。シエナはイタリアでもとくに伝統を重んじる街です。街の人間でない僕が手がけたことを知った人に『日本人が作った靴なんて履けるか』とあからさまに言い放たれたこともありました。それでも続けられたのは、やはり自分の靴が作りたかったからです。
イタリアではテクノロジーが発達した現代においても、先人から受け継いだ技術や伝統が大切にされています。靴づくりも150年前に完成された技術を基本にしています。貴重な皮革に恵まれていることにも魅了されました。アレッサンドロが使っていた例の革は、ロシアンカーフといわれるものでした。1786年に沈没した船から引き揚げられた帝政ロシア時代の皮革です。そうした環境で自分の靴を作りたい。それこそ僕がビスポークを志した原点でした。
そのシエナでは、有名なヒストリックカー・ラリー『ミッレミリア』を見る機会もありました。「世界一美しい」といわれるカンポ広場を古い車たちが次々と通り抜けて行く光景は衝撃的でした。なかでも僕の目を引いたのは、アルファ ロメオのコンペティションカーです。修復していなかったのか錆だらけでしたが、なんともいえぬ風格があり、美しいエンジン音とエグゾーストの香りを放ちながら駆け抜けて行った姿を今でも覚えています。美しすぎました」

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
「とてつもなく社会的ポジションの高い方が、突然靴をつくりにいらっしゃる。それもフィレンツェならではです」と深谷氏。

パトロン文化息づく国で

2005年、深谷氏はフィレンツェの老舗セレクトショップ『Tie Your Tie』のオーナー、フランコ・ミヌッチ氏に認められ、彼の助力を得て日本人として初めて海外にビスポークのショップを開店した。
今日『イル・ミーチョ』は、フィレンツェに5軒存在する誇り高きビスポーク・シューズブランドの1軒である。完全予約制・完全カスタムメイドで、採寸から仕上げまで全工程を手作業で行う。好みも体型も千差万別の顧客と対面し、それぞれにパーフェクトなデザインをイメージしてゆくうえで、もっとも気を配る点はなにか、と訊くと、次の答えが返ってきた。

「すべてはバランスです。お客様の服、身長、脚の長さ、体型を見たうえで、最も良いスタイルに見えるデザインを考えます。同時に、その人の生活や人生を想像します。ビスポークはお客様と一対一の勝負です。ただし、お客様の職業については聞かないことにしています。デザインをイメージするうえでの妨げになりますから、知らないほうがいいのです。ときに、ショーファー付きのリムジンでやってくるお客様もおられますが、それでもお仕事は伺いません。自分の中に構えてしまう部分が生まれますから。さりげなくいらしたお客様の靴を製作したあとに仕事仲間から『あの方、誰だか知ってるかい。あの国王のご子息だよ』と聞いて驚いたときもあります。
イタリアには、ビスポークを必要としている人がやってきます。僕のスタイルに共感してくださるお客様です。僕はそういう方のために仕事をしているのです。彼らは作り手を急がせません。かつてヨーロッパの貴族が有能な職人や芸術家の仕事を理解し、惜しまず庇護を行ってきた、いわゆるパトロン文化の名残です。加えて、フィレンツェは喧騒にまみれた世界の大都市と違い、静寂に包まれています。職人が良質なモノづくりに没頭できる環境がここにあるのです。それこそ僕がイタリアにとどまった理由です。そして・・・大好きなキャンティワインも美味いですしね。
僕の仕事は、靴をスタート地点まで運ぶことです。そこからフィット性を上げてゆくのは、お客様の仕事です。いくらビスポークだからといって、最初から羽根が生えたような履き心地になる靴は存在しないと思います。調整が必須です。加えて、きちんと手入れをしてキーパーを入れて保管し、修理も繰り返しする必要もあります。ただしそのように愛してあげれば一生履ける靴です。車も同様ですが、手入れをしないと、いくら高価なものでも駄目になってしまいます。ですからお客様が何年か経って、再び靴を持って戻っていらっしゃるのは、とても嬉しいことです」

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
18世紀の沈没船から引き揚げられた帝政ロシア時代のトナカイ革を用いたウィングチップ・シューズ。

『イル・ミーチョ』創設10周年の2015年には、20世紀イタリアを代表する彫刻家にちなんだマリーノ・マリーニ美術館で、靴をテーマにしたオブジェの個展も開催した。作品は日本でも巡回展が行われて話題を呼んだ。
深谷氏のモノづくりをアートに繋げたきっかけは何だったのだろうか? そしてフィレンツェにとどまる決意をさせた、イタリア人気質とは?

「昔からアートが好きだったので、モノ作りとアートの結びつきは僕のなかでは自然の流れでした。これまで培ってきた技術を、さまざまなカタチで作ったら面白いだろう、という発想でした。同時に若い人たちに、『靴づくりとは辛い修行だけではなくて、こういうこともできるんだよ』というメッセージを伝えたい想いもありました。
情熱があればチャンスを与えてくれるのがイタリアです。名門美術館が常設展示作品と並べるかたちで、僕の作品を展示させてくれたのも、そのあらわれです。

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
工房を飾る「イル・ミーチョ」のロゴ。

日本とイタリアに共通する
「モノづくり」への情熱

深谷氏のブランド名である 『イル・ミーチョ(Il micio)』とはイタリア語で子猫の意味だ。「気高く、誰にも媚びず、自由な精神で靴作りを追求したいという想いを込めました」と説明する。自らがマエストロ(親方)として知名度を上げても、彼はけっして奢らない。
ときおり笑みを浮かべるも、ひたすら朴訥な語り口で、眼鏡の奥から遠くを見つめながら自らのモノづくりを語る。ひとたび仕事台に向かうと、ストイックという言葉がふさわしい集中ぶりを見せる。

たとえ最初は硬くても、履けば履くほど革底にフィット感が生まれ、馴染んでゆく。まるで生命をもっているかのようなイタリアン・シューズの美点を踏まえたうえで、深谷氏は新たな挑戦を続ける。フィレンツェの伝統工芸であるマーブル紙職人とのコラボレーションや、江戸時代から尾張に伝わる「有松絞り」を反映した作品など、いずれもイタリア人靴職人が考えなかったものを次々世に問うことで、ヨーロッパの目利きたちを驚かせてきた。
日本とイタリアを深谷氏のモノづくり視点で捉えた場合、どのような共通点があるのだろうか。

「日本人とイタリア人に共通するのは、モノづくりに対する情熱です。それがないとモノづくりはできません。一般的にイタリア人は陽気で明るく、あまり働かず、愛を謳歌し人生を楽しんでいるというイメージがあります。そういう人もいないわけではありませんが、僕が知る職人の世界は別です。マエストロ級の人も修行中の若者も、熱心かつ真面目に仕事をします。“勤勉で働きすぎ”は日本人の代名詞ですが、ことモノ作りの世界に関しては、イタリア人も同じなのです。
情熱を表す“パッシオーネ”は、何かを好きだという強い感情から生まれます。イタリアの人々はこの感情を非常に大切にしています。パッシオーネこそ、モノ作りにおいて、とてつもないパワーを生むのだと思います。
僕のまわりの職人たちは朝早くから夜遅くまで、近寄りがたいオーラを放ちながらモノ作りを毎日“楽しんで”います。好きで楽しいからこそ創造するわけで、昨日より明日、明日より明後日、どんなベテランでも日々の成長を目指して修行に励んでいます。『モノ作りには終わりがない』というのは、文化や民族を超えて、僕がイタリアの職人にシンパシーを感じる共通点です。
アルファ ロメオの名設計者ヴィットリオ・ヤーノは20世紀前半、機械も道具もそして情報も今日ほど無かった時代にもかかわらず、素晴らしい車を創りあげました。そしてレースに勝利し、歴史に名を残すことができました。強い信念と情熱があったからでしょう。
人は、先人の遺産を自分に取り入れて新たなものを創造してゆかなければなりません。アルファ ロメオも先を生きた人の豊かな宝を受け継いで、他にはないモノ作りやデザインの精神が息づいていると思います。僕もアルファ ロメオ スパイダーの美しい流線型のボディを見ると、新しい木型作りのアイディアが生まれてきます」

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
「クルマと同じで、上質な靴はきちんとしたメインテナンスをすれば、一生涯履くことが可能です」と深谷氏。

いっぽうで、イタリア人と日本人の違いは?

「イタリア人は遊ぶのもうまいですね。師匠だったアレッサンドロは仕事に集中していたかと思うと3ヶ月休みをとります。だから僕のもとに、いきなり彼から東南アジアからの絵葉書が舞い込んだりします。僕も昔は休みませんでしたが、徐々に休息の大切さを覚えました。ですから8月は休みます。ただし自分のアート作品づくりに没頭してしまいますけど。
そしてイタリア人は、サッカーと同じくらい車を愛しています。「アルフィスタ」と呼ばれるアルファ ロメオ好きもたくさんいます。僕は趣味で戦前の自転車を集めて年8回ほどレースに参加していますが、自転車仲間にもアルフィスタが少なくありません。彼らは新旧いずれのアルファ ロメオも愛していて、心から楽しそうに、まるで自分が造ったかのようにえんえんと車談義をします。聞いていると、僕もアンティーク自転車の次は車かな? という誘惑に駆られます」

深谷 秀隆 Hidetaka Fukaya (1974-)
アルファ ロメオ スパイダー。(写真は1983年-1989年のモデル)
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