collector

ふたりの男が体現する
“モノ”への愛情

ルネサンス期におけるヨーロッパの王侯貴族を例に挙げるまでもなく、
あらゆる時代において様々な“モノ”を愛で、収集に情熱を燃やす人々。
彼らはコレクションを通して、何を探し求めているのか?
かたや、アルファ ロメオの名車たちを美しくレストアし、世界中のファンを魅了するイタリアのカーコレクター。
かたや、「ブリキのおもちゃ」のみならず多岐にわたる分野のコレクションに勤しむ
日本屈指のコレクター。ふたりの男が語る「“モノ”への愛情」が、ここに交錯する。

※記事の掲載内容は2018年2月現在のものです。あらかじめご了承ください。

  • コラード・ロプレスト
  • 北原 照久

「文化を継承する視点」から
アルファ ロメオの保存に取り組む

コラード・ロプレスト Corrado Lopresto (1956-)

コラード・ロプレストCorrado Lopresto (1956-)

1956年南イタリア生まれ。
この国で生産されたシャシーナンバー1の自動車、もしくはプロトタイプも含めたワンオフ*を収集基準とする自動車コレクター。世界に名だたるコンクール・デレガンスで自らレストアを施した多くの賞を獲得している。
現在は60台のアルファ ロメオを保有、文化的側面からの保存と継承を行なっている。

※記事の掲載内容は2018年2月現在のものです。あらかじめご了承ください。

アルファ ロメオは、より速くより楽しく人間を目的地に運ぶ機械。同時に芸術であり歴史でありイタリアの財産だ。マシーンとしての高い性能、凝ったメカニズム、アートと称されるスタイリング、絶えることのない歴史は作り手と乗り手によって育まれ財産となったが、この国にはそれを守る人々がいる。文化の継承者としての使命感と責任感溢れるコレクターもそんなひとりである。

アルファ ロメオへの深い愛情

コラード・ロプレストはイタリアでもっとも有名なアルファ ロメオのコレクター。彼が有する名車はヴィッラ・デステ、ペブルビーチといったプレステージの高いコンクール・デレガンスに出品されて数多くの優勝を飾り、世界中のヘリテージカー・ファンを魅了している。彼が所有するアルファ ロメオの美しさに賞賛が集まるが、その賞賛を生み出すのはアルファ ロメオへの深い愛情とレストアへの情熱。
1956年、レッジョ・カラブリアで生まれた彼は、メッシーナ海峡をはさんでシチリア島の真向かいに位置するこの県の半分の土地を一族が所有する裕福な家庭の出。イタリアの名家の常でロプレストもまた幼い頃から自動車に親しんだ。といっても運転手がステアリングを握るニューカーに乗っていたわけではない。祖父から父へ、父から息子へ、大切に手入れされて受け継がれる家族のクルマを身近に見て育ったのである。
ヘリテージカーとの出会いは大学時代。1600年代の絵画が好きだった彼はイタリアン・アートの素晴らしさの虜になる。バロック絵画の形成に大きな影響を与えたカラヴァッジョを代表とするこの年代の絵画は彼に芸術の素晴らしさ、クラシックの魅力と祖国の偉大さを伝えた。そんな彼が自身のファーストカーに”年代もの”を選んだのは自然な流れと言えるだろう。このクルマとの出合いが彼にレストアすることの楽しさと難しさの双方を教えた。 「私が買ったクラシックカーの製造元に手紙でパーツの情報を問い合わせると、すぐ返事が来たんですよ。時間を飛び越え、オリジナルに復元出来る喜びを知ったんです。歴史、メカニズム、マテリアル、デザインの理解、レストアがいかに難しいものであるかもこの時、痛感しました。それでもね、ハマってしまいましたよ」

コラード・ロプレスト Corrado Lopresto (1956-)
世界のヘリテージカーのコンクールで55回の総合優勝、83回のクラス優勝、251回の入賞を果たしたロプレスト・コレクション。
写真はもっともプレステージの高いコンクール・デレガンスであるヴィッラ・デステで最優秀賞、コッパ・ドーロを受賞したアルファ ロメオ6C1750GS APRILE。

自動車が秘めるさまざまなストーリー

建築家の傍ら、コレクターとしての人生を歩み始めたロプレストは、イタリアで生産されたシャシーナンバー1の自動車、もしくはプロトタイプも含めたワンオフ*の収集を続けている。最高のコンディションに高値のつく名車を探すわけではない。長い歴史と物語を持ちながら、忘れ去られ、放置された名車たちを探し当て、レストアして再び息吹を与えるのだ。
コレクション・アイテムとしてのアルファ ロメオとの最初の出合いは1990年。フォーミュラマシーン譲りの独立懸架(前:ダブルトレーリングアーム/後:スウィング・アクスル)という当時としては画期的なサスペンションを搭載したことで知られる1938年型6C2300Bのメカ部分はもちろん、塗装もオリジナルカラーのそれを施し見事に再生させた。これを皮切りにアルファ ロメオにのめり込み、自動車の1台1台が秘めるさまざまなストーリーに取り憑かれた。
1931年型6C1750GS APRILEはその代表例と言えるだろう。 インターネット上で見つけたこのクルマの持ち主はスイス人。長い間の放置によってコンディションが悪化したため、購入に多くのアルフィスタが二の足を踏んでいた。レプリカかどうか、見分けがつかず、それで買い手がつかなかった。

コラード・ロプレスト Corrado Lopresto (1956-)
今はなきカロッツェリア・アプリーレの前で撮影された貴重な1枚。ザガートが製作した1931年型アルファ ロメオ6C1750GSは数回のレース参戦ののち、38年にジェノバにあるカロッツェリア、アプリーレの手に渡り、エアロダイナミクスに富んだ新たなボディが架装された。ステアリングの裏に刻まれたデザイナーのサインを手掛かりにロプレストがこのクルマの変遷を辿った。Photo:Roberto Carrer

数々の名車を発見して、蘇らせる

「私はすぐ調査を始めました。オーナーに送ってもらった写真を入念に調べた結果、ステアリングがデザイナーのマリオ・レヴェッリ・ボーモンの手になるものと判明したんです。イタリアではあの時代、もっとも有名なデザイナーで数多くの特許を取得した才能豊かな人です。すぐにボーモン家を訪ねて遺族に当時の写真を探してもらい、それを売りに出されたクルマの写真と丹念に比較してレプリカではない、オリジナルだと確信しました」
彼はすぐ購入に踏み切りレストアをスタートさせたのだが、自動車はひとつのパーツがさまざまなことを語ることを実感したと言う。前述の通りステアリングのデザイナーを見つけたが、続いてそのデザイナーが通ったカロッツェリアを探りあて、今は亡き経営者の家族が保管する資料とアルファ ロメオを綴る文献とを照合してオリジナルの状態を把握したのだった。
イタリアの貴族がピニンファリーナに依頼して製作された6C2500SSクーペ ピニンファリーナは二灯を特徴とするワンオフ*。61年にイギリスに売られ、その後、75年にアメリカ人の手に渡り放置されていたものを彼がイタリアに連れ戻してレストアした。 アメリカのとあるガレージで眠っていた1961年型のジュリエッタSZ “コーダ トロンカ”も彼が発見、モディファイを受けているところから開発用プロトタイプであることが分かった。ロプレストはレストアへの理解を深めるため、このクルマの半分だけをオリジナルに再現、この状態で公開した。

コラード・ロプレスト Corrado Lopresto (1956-)
アルファ ロメオとザガートが生み出した傑作、1961年型ジュリエッタSZ “コーダ トロンカ”。1957年に生産が開始されたジュリエッタSZシリーズの後期モデルであるこのクルマは僅か30台、ラインオフされ、コレクターズ・アイテムとなっている。ロプレストはこの“コーダ・トロンカ”を車体左側のみレストアした姿で公開した。レストアへの理解を深めるために行われたこの試みが、多くの注目を集めた。

「オリジナルに忠実にレストアする」
という信念

現在では優秀なメカニックや塗装のプロを集めた彼自身のレストア・チームを結成。彼らがひとつひとつのパーツを調べ上げ、出自を掘り起こし、ボディについては絵画の復元から応用した最先端の技術を駆使してレストアが行われる。もちろん陣頭指揮を取るのはロプレスト自身。チームのメンバーからどんな細かなことでも気づいたことはすべてシグナルとしてロプレストに報告され、それに対して彼が細かな指示を出す。的確な指示を出すことが出来るのは、クルマが生み出された時代の製造方法やカロッツェリアの状況、デザイン手法、メカニズムに精通し、最新のレストア技術を絶えず勉強しているから。オフィスには膨大な資料が山積みになっている。
こだわりはアルファ ロメオをオリジナルの状態に戻すこと。オリジナルに忠実にレストアするという彼の信念は、現在ではロプレスト手法として知られている。
「アメリカには自分の好きなボディ・カラーに塗装したり、当時は合成革が使われたシートを本革にしたりするコレクターがいますが、私は製作時に合皮が使われていたならそれを復元します。クルマ全体の5%、塗装がだめになっていればだめになっている箇所だけ再塗装する。これは絵画の復元手法です」
オリジナルにこだわるのは、作り手、すなわち人間への尊敬であり、自動車は書き換えてはならない歴史の産物だからと彼は言い、多くの人に見てもらおうとクラシックカーのショーにも展示、イベントにも参加している。自動車文化に貢献することを、自らのミッションとするのである。

コラード・ロプレスト Corrado Lopresto (1956-)
ロプレストの仕事場。ミラノの中心街、近代的なオフィスビルの地下の扉を開けると別世界が広がる。貴重な資料や写真と共に彼の愛する絵画、ミニカーやバイクがセンスよく並べられている。Photo:Roberto Carrer

アルファ ロメオの魅力を物語る
3つのキーワード

そんな彼にとってアルファ ロメオとはどんなクルマなのだろう。彼をこれほどまでに惹きつける魅力についてこんなふうに語る。最初のキーワードは<調合>。
「アルファ ロメオのクルマたちはメカニカル、デザイン全てに亘ってバランスがとれている。それがアルファ ロメオの魅力であり、らしさです。アルファ ロメオは先進技術を備えながら同時に美しい。どちらかが飛び出ているわけではない。調和している。エレガントな美とスポーティネスの<調合>が絶妙、これが私のもっとも惹かれる点です。イタリアにはスポーティネスをぐっと強調するクルマも、エレガントを持ち味とするものもあるけれど、2つが絶妙な量で調合されている自動車はアルファ ロメオ以外にはないと思います」
続いてのキーワードは<歴史>と<物語>だ。
「アルファ ロメオの長い歴史には多くの物語がこめられています。多くのカロッツェリアが競ってアルファ ロメオをデザインした時代を掘れば掘るほどこのクルマを愛した人間の情熱が感じられる。こんなメーカーが他にあるでしょうか」
速さと美をこよなく愛するイタリアが生み出したアルファ ロメオは、この国の財産であると同時に世界の文化遺産として残されるべき。ロプレストは文化を継承する視点からアルファ ロメオの保存に取り組んでいる。

*ワンオフ:1台のみ生産された特別なモデル

「長く愛する、愛されるモノたち」を
集め続ける、世界的コレクター

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

北原 照久Teruhisa Kitahara (1948-)

世界的なティントイ(ブリキ玩具)・コレクター。
神奈川県横浜市「ブリキのおもちゃ博物館」、羽田空港第一ターミナル内「北原コレクションエアポートギャラリー」、山梨県「河口湖 北原ミュージアム”Happy Days”」、千葉県柏市「北原コレクションミュージアム」を展開。さらに宮城県松島町「ザ・ミュージアム松島」、東京京橋「京橋エドグラン」でも常設コレクションを展示中。
同氏のコレクションを使用したCM、映画など多数。株式会社トーイズ代表取締役。

※記事の掲載内容は2018年2月現在のものです。あらかじめご了承ください。

柔和な笑顔と博識でテレビなどでおなじみの北原照久氏は、世界的「おもちゃコレクター」として世に知られている。おもちゃ好きの多くの海外セレブも来日時には彼を訪ねるほど。
そんな「おもちゃの北原」であるが、彼のコレクションにおける「おもちゃ」の割合は、実は全体のわずか四分の一程度に過ぎず、時計、看板、ラジオ、広告やノベルティといった日用品から、果ては現代作家によるコンテンポラリーアートと、そのコレクションは実に幅広い。
戦後間もない昭和23年、東京京橋生まれの彼は、意外にもその子供時代にコレクターとしての素養はなかったと振り返る。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

モノの向こうに見えるもの

ふとしたことで、自宅そば、京橋の明治屋の二階で売っていたという万年筆「Parker(パーカー) 61」に出会う。そのとき彼は小学校五年生。「どちらかというとモノを集めるタイプの子供じゃなかった…」そう語る北原氏は、当時の子どもたちが夢中になっていた古銭や切手収集には関心がなかったという。
当時の日本は、戦後復興の真っ只中。そこかしこに豊かさの象徴であるさまざまなアメリカンなモノたちが溢れ始めていた頃。そんな憧れのアメリカを連想させるようなミントグリーンの色合いの万年筆に、北原少年はイチコロだったという。
パーカー社はアメリカ生まれの高級筆記用具メーカー。この「Parker 61」は当時の大学生の初任給ほどである15,000円という高額商品。もちろん小学生が買えるレベルでもなければ、買いたいと思えるようなものですらなかった。
ちなみに当時、万年筆といえば高校か大学の入学記念に手に入れるのが相場の代物。小学生にはまさに無用の長物。しかし、なぜかこの万年筆に魅入られた北原少年は、誘惑の多い少年時代にも関わらず一年間ひたすら節制を重ね、ついに「Parker 61」を手に入れる。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

日本のみならず当時の世界は、ファッションや風俗、あらゆるモノづくりなどが戦後の覇者たるアメリカに大きな影響を受けていた。1950年代~60年代にかけての自動車もしかり、歴史的に世界の自動車デザインを牽引してきたイタリアのカロッツェリアの作品たちでさえも、色濃くアメリカンな空気をまとっていたそんな時代。 モノとしての魅力以上に北原少年が「Parker 61」に惹きつけられたのは、他ならぬそんな時代が醸し出していた、その先に見える「ステキな雰囲気」。
現在の北原氏をコレクションの世界へと誘うきっかけであり、コダワリの原点でもあるという。

目覚めのとき

やがて大学へと進学した北原氏。時は折しも学生運動真っ只中。続く休講に嫌気がさし、卒業後に手伝う家業(スキー専門店)のことも考え、オーストリアのインスブルックにスキー留学をすることに。
14世紀には、かのハプスブルク家が治める都があり、今でも小さいながらも歴史と伝統であふれる風光明媚な観光地として知られるインスブルックは、東京オリンピックと同年の1964年、1976年にオリンピックを開催しているウインタースポーツの盛んな都市である。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

やがて北原氏のコレクターとしての生き様を決定づける「出会い」がそこにあったのだが、なんとそれが「鍋」だったという。
ホームステイ先の暖炉に「飾られていた」鍋。正確には北原氏いわく「まるで魔法のお鍋」は、その数5つほど。母、祖母、曾祖母といったように代々台所を任されてきた者たちの愛用品。そんな本来キッチンにあるはずの鍋たちが、団欒の場所である暖炉に飾られているという不自然を感じつつも、北原氏を刮目させたのはその鍋たちによって振る舞われる料理の旨さだった。
「このお鍋はじゃがいも料理。これはタマゴ…。それぞれに得意料理があったんだけど、それがいまだに忘れられないんだよね…。本当に魔法にかかったような旨さだった。きっとお鍋はもちろん、それを作った人も、使っていた人たちもみんな幸せだと思うんだ。だって、みんなが嬉しくなるんだもん。」
古都インスブルックの街並み、家屋、机、ラジオ、ランプ、そして食器…。あらゆるモノたちには歴史があり、それを大切に守り続けている人々の愛が満ち溢れている。
遠く日本からやってきた北原青年を迎えたのは、暖かなホームステイ先の家族だったわけだが、同時に彼らをとりまく環境。つまり、歴史が刻まれた家具や家、街、あらゆるものに迎えられていたことに気づく。
これこそが、コレクター北原照久氏の根幹となる長く愛する、愛されるモノたちの収集。つまり「ヒトとモノとのステキな距離感がみえるコレクション」へとつながっていく。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

「コレクター・北原照久」

やがて日本に戻った北原氏は、ある日今度は路上に捨てられた柱時計と出会う。セス・トーマスというメーカーのその時計はもちろん不動品。「ヨーロッパじゃ絶対に捨てない!」と思い家に持ち帰った北原氏は清掃と注油を施し再び命を吹き込む。
そこからは、まさに芋づる式である。柱時計にはじまり、やがてその派生商品が気になりだす。ついで、それらが共存していた周辺のモノたち…。瞬く間にそのジャンルやカテゴリ、量は爆発的に増え、それにあわせた商品、製造元、素材、時代背景、流行など、興味関心、そして知識がとめどなく広がっていく。
ちなみに北原氏はコレクションを転売することはない。だから、今も増え続けるコレクションは総床面積1200坪の倉庫をも埋め尽くすほどになっているという。彼のトレードマークといわれる「ブリキのおもちゃ」がコレクション全体の二割ほどというのもうなずける。
大森貝塚の発見や、日本にダーウィンの「進化論」を体系的に紹介し、日本の人類学、考古学の基礎を作ったといわれるアメリカの動物学者エドワード・シルヴェスター・モースは、彼が日本に訪れた明治の初期、船一杯ほどの大量のゴミを含む日用品雑貨類をアメリカに持ち帰ったという。
「数はチカラ」ではないが、結果としてモースがアメリカに持ち帰った十把一絡げともいえる大量のモノたちは、幕末の日本の風俗を後世に伝える極めて重要な資料となった。当時の風俗や食生活が計り知れるだけでなく、その中にあったおびただしい数の草履からは、当時の日本人の平均的な体格すら把握することができたという。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

北原氏がインスブルックから日本へ戻り、その後50年近くも続け、今も増え続ける広範囲な「コレクション」は、まさにモースのそれに近く、いまや20世紀の日本の歴史風俗が読み解けるほどのヒントがそこにはあるという。

人を楽しませるために

いわゆる「コレクター」と聞くと、ともすると内向的な趣味といった印象を持つ人が多いかもしれない。しかし、北原氏は声を大に言う、「コレクションは人を楽しませるためにこそある」と。これは、一流のコレクター特有の精神なのか、はたまたある一線を越えた者に芽生える「悟り」なのか、現に北原氏のコレクションは冒頭のように様々な場所、機会で一般に公開されている。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

それを裏付けるかのように、北原氏自身はもちろんのこと、彼のコレクションには得も言えない明るさと朗らかさがある。100年を越えようというお世辞にもピカピカとは言い難い人形やおもちゃたちにも、独特な「輝き」のようなもの、イキイキとした何か生命感のようなものを感じることができる。現在の作家が作ったという作品たちにも、同様の生命を感じることができる。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

北原氏はいう。「作り手の夢やロマンがつまったモノはやっぱりなんともいえないチカラに満ちあふれている。だからアルファ ロメオが長く愛される理由も、熱心なコレクターがいることもよく解る。コラード・ロプレスト氏もきっとそうだと思うけど、モノをたくさん集めると見えてくることがある。それは、最初に作られたモノは格別だということ。はじめて作ったものには特別な意味がある。僕はコレクションこそが歴史を紐解く鍵だと思うし、なにより収集・調査・研究の連続だから学問だとさえ思う」

「社会教育家の蓮沼門三氏の言葉で“点々相重ねて線を成す。線々相並べて面を成す。面々相重ねて体を成す”というのがあるけど、意味のあることをきちんと継続してはじめて見えてくることがある。作り手の思い。使っていた人間の愛情、時代などに思いを馳せるのって、とってもロマンチックだと思う。僕が考えるコレクションの醍醐味ってそこなのかもしれない…」

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)

ちなみに、北原氏はクルマが大好きだ。むしろそれは当然である。だが、あえてクルマのコレクションだけは小ぢんまりとさせているというが、その理由は簡単。ことさら熱しやすく冷めにくい性格の人間がクルマに手を染めると…。答えは言わずもがなである。だから、コレクションをはじめた早いうちからクルマコレクションに関しては、いまだにある程度の距離感を保っているという。 いっぽうで、ミニカーのコレクションはもちろん世界レベル。そんな北原氏をして「古いアルファ ロメオのブリキのミニカーはほぼ見かけたことがない」という。
そんなわけで残念ながら今回の取材で写真に収めることはできなかったが、最後にこんなことを言ってくれた。

「僕ね『卒業』が大好きなんだよね…」

1967年制作のアメリカ映画「卒業」はアメリカン・ニューシネマの筆頭であり、サイモン&ガーファンクルの歌うテーマ曲「サウンド・オブ・サイレンス」や、「結婚式で花婿から花嫁を奪う」シーン、そして主人公の乗る1966年型アルファ ロメオ スパイダー“デュエット”があまりにも印象的な映画でもある。
膨大な映画のポスターもコレクションしている北原氏。まさにリアルタイムでこの映画を体験している彼にとっては、やはり相応のインパクトがあるのだろう。「だって、アルファ ロメオかっこいいんだもん…」
一台くらい…。それは世界的コレクターに対して失礼な物言いなのだろうが、それでも彼が赤いデュエットにさらりと乗る姿をぜひ見てみたいと思うのも事実である。

北原 照久 Teruhisa Kitahara (1948-)
1962-1983 Alfa Romeo Spider “duetto”
  • コラード・ロプレスト
  • 北原 照久