EPISODE 36C 2500 Series

− 走るアート −6C 2500シリーズ

6C 2300や2300Bの後継として登場した6C 2500は、テレスコピック・ショックアブソーバーを備えたトーションバー式リアサスペンションや、油圧ブレーキを採用し、革新的な技術を盛り込むというアルファ ロメオの伝統を継承した。またエンジン性能も向上し、6C 2500スーペルスポルトでは最高出力は110hpを発生。最高速度は170km/hに達した。レースデビューの舞台となったのは、1939年のトブルク-トリポリ間を競うロードレース。バンパーを一体型とした、“チックウイング”と呼ばれるボディをまとった6C 2500は、その最初の戦いを勝利で飾った。

独創的な技術やモータースポーツでの活躍は、顧客の購買欲を強く刺激した。6C 2500は、5人乗りおよび7人乗りの6C 2500ツーリズモから生産が開始され、ショートホイールベース仕様の6C 2500スポルトと6C 2500スーペルスポルトの製造は、外部のコーチビルダーに委ねられた。車両価格は、62,000〜96,000リラと高額だったにも関わらず、市場から好評を持って迎えられた。計159台が販売され、売り上げは当時のフィアットの人気モデル508バリッラの1200台分に相当した。

第二次大戦の後、軍需生産を行なっていたアルファ ロメオのポルテッロ工場は、自動車製造に向け再編を急いだ。工場は1943年と1944年に2度大規模な爆撃を受け、生産再開への道のりは険しかったが、6C 2500を世に送り出すために全力が注がれた。幸い、工場にはある程度部品のストックが残っていた。

1945年に、わずか数台ではあったものの6C 2500が完成。技術者や労働者はまるで夢を見ているかのようにその姿に見入った。その頃、ミラノをはじめ、イタリア中の都市は崩壊した建物がそのままの姿で残されている状態で、経済は危機に瀕していた。工場を動かすためには、必要な材料や燃料を手に入れるために闇市場を利用しなければならないような状況だった。

1946年に入ると、生産台数は徐々に回復していった。この年に作られた車両は、コーチビルダーに供給するシャシーも含め、146台だった。そのうちコンバーチブルバージョンに仕立てられた1台は、パリ・モーターショーへの出展が予定されていた。ところがイタリアは敗戦国だったため、ショーへの出展が承認されなかった。しかしその車両を手掛けたコーチビルダーは、ある奇策を思いつく。自ら手がけたモデルが人目につくように、日中はグランパレの入り口に車両を停め、夜はオペラ座に乗り付けたのだ。そのコーチビルターとは、バッティスタ・“ピニン”ファリーナである。こうして彼が手掛けた6C 2500 カブリオレ スペチアーレ ピニンファリーナは衆目を集めることに成功した。

1946年のポルテッロは、もう1台歴史に名を残すモデルを生み出している。6C 2500 スポルトのシャシーをベースに作られた6C 2500スポルト フレッチア ドーロ(金の矢)である。その特徴的なラウンドテールは、エアロダイナミクスを考慮した最新の開発成果によるもので、後に多くの車に影響を与えることになる。ピニンファリーナも6C 2500をベースにエレガントなクーペを生み出し、コモ湖畔チェルノッヴィオで開催されるコンクール・デレガンス・ヴィラ・デステで賞を受賞。その車はボートレーサーで自動車好きのアキッレ・カストルディ氏が購入し、ピニンファリーナがパリで行ったパフォーマンスと同じことを、ジュネーブ・モーターショーで繰り広げたというエピソードが残っている。

アメリカの俳優タイロン・パワーは、6C 2500でローマを駆け巡った。アルゼンチンの大統領、フアン・ペロンと彼の妻のエビータは、同じ車をミラノで乗り回し、人々の羨望の目を集めた。他にも6C 2500は、かつてのエジプトの君主ファールーク一世、モナコ公のレーニエ3世といった世界のセレブリティを魅了した。女優のリタ・ヘイワースが1949年5月27日、アリ・カーン王子との婚姻のためにカンヌ市役所を訪れたときに乗っていた車は、ウエディングギフトとして贈られたばかりの6C 2500カブリオレ ピニンファリーナだった。上品なグレーのボディで、エンジンフードやインテリアにブルーがあしらわれたその車は、花嫁のドレスとも完璧に調和していた。

結婚式は当初、5月上旬に予定されていたが、イタリアのサッカーの英雄たちを乗せた航空機の墜落事故、“スペルガの悲劇”を気遣い、予定が延長された。王子は大のサッカー好きだったという。ちなみにポルテッロでは1939年、6C 2500の誕生と同じ年に、サッカークラブが編成されていた。イタリアのサッカー選手、ヴァレンティーノ・マッツォーラも有名になる前にそこで練習を積み、将来の夢を描いていた。

その美しさで世界中のファンを魅了した6C 2500 SS “ヴィラ デステ”。アルファ ロメオにとってその車は、フレーム構造を採用した最後のモデルとなった。生産台数はわずか36台。その1台1台がコーチビルダーによるアイデアや顧客の要望を反映して作られ、違う仕様に仕立てられた。

その6C 2500 SSクーペは1949年のコンクール・デレガンス・ヴィラ・デステで、“グランプリ・リファレンダム(一般投票によるグランプリ)”を受賞した。この受賞により、6C 2500 SSは、“ヴィラ・デステ”の愛称で呼ばれるようになっていく。

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